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宇都宮地方裁判所 昭和38年(わ)8号 決定 1963年9月06日

被告人 八木沢光三

決  定

(被告人氏名略)

右の者に対する傷害致死被告事件について当裁判所は調査の結果次のとおり決定する。

主文

被告人に対する昭和三八年一月二八日付公訴はこれを棄却する。

理由

被告人に対して昭和三八年一月二八日別紙起訴状のとおり公訴が提起され、同月二九日右起訴状の謄本が小幡町拘置支所長宛に送達されたことは廷吏送達報告書によつて明らかであるが、当裁判所は証人萩原浅五郎の当公判廷における供述、証人尾島清一の証人尋問調書、鑑定人萩原浅五郎の鑑定書並びに通訳人田上隆司に対する被告人の当公判廷における応答的態度などを総合判断し、以下に述べる理由により、被告人に対しては起訴状謄本の送達がなされなかつたものと同様に解し、しかもその瑕疵は公訴提起後二ヶ月を経ても治癒されるにいたらなかつたものであるから、本件公訴は遡つて不適法となつたものと判断して本件公訴を棄却するものである。

すなわち、すでに起訴状記載の公訴事実においても被告人はいん唖者である旨記載されているのであるが、前掲各証拠によれば、被告人は現在住居地で農業又は養鶏などの仕事に従事しているものであるところ、幼少の頃から聴覚障害を有し、現在では良聴耳で七八・三デシベルに過ぎないいわゆる内耳性聾者であるが、適切な聾教育を全く受けて居ないため、口話法、手話法はもちろん、聾学校で教育を受けたものが意思交信の手段として用いる約束的な表現形式の身振り語も習得していないうえに生来の魯鈍級の精神薄弱の知能も手伝つて、正常な言語の発達が著るしく阻害され、話し言葉及び書き言葉の理解又は表現はわずかに被告人自身及び家族の氏名を漢字で書くことができ、仮名文字数語を理解し得るのみで、その理解及び表現能力は正常な子供の二才レベル前後を示すに過ぎず、その他通常の意思交信の手段としては全くの自然発生的で特定の者以外には通じないような自己流の身振り動作を用いていたことが認められる。したがつて、被告人の訴訟能力の調査を主としながら前後三回にわたつて行なわれた当裁判所の公判においても、裁判所で選任した通訳人は窺余の策として表意的な絵を示して意思を交信する方法をとり、複数の絵を示してその一を選択させて被告人の意思を確定しようと試みたのであるが、方法上の限界もあり、さらには従来の生活環境から激変した被告人という地位に立たされて、被告人がこれまでの体験から辛うじて獲得して来ていた内語では了解不可能なためもあつてか、黙秘権、反対尋問権などの訴訟上の諸権利または起訴状の朗読、証拠申請、次回公判期日の指定などの訴訟手続は全く通訳する方法がなく、また証人の当公判廷における供述、証人尋問調書、鑑定書などの内容も一定の思想を表現するまとまつた文章としては通訳することが不可能であつたもので、わずかに被告人の氏名及び住居(正確ではないが)と公訴事実に即した絵を示した際その一部を自認したことを窺い得たにとどまり、被告人の年令すら被告人自身に確め得なかつたなど、結局被告人に対しては身振り動作又は絵による描写が可能な具体的な事物を示すこと以外に一般に話し言葉又は書き言葉によつて表現される抽象的な概念を理解させる方法はなく、疑問、仮定、目的などの意味を含む問いかけも全く不可能なことが確められるにいたつたのである。

このような事実を総合すると、被告人は言語障害のため意思交信の手段において通常人に比し著るしい制約を受け、現在の刑事訴訟制度のもとにおいては、たとえ弁護人や補佐人の援助を得たとしても、これらの者との間に真意を交流し、訴訟当事者として一定の訴訟行為をなすにあたりその行為の意義を理解し訴訟上の防禦権を行使する能力は全く有しないものと認めるのほかはなく、正当な法の手続に従い公正な裁判を受け得ることは全く期待し難いから是非善悪の判断能力である刑事責任能力はしばらくおくとしても、刑事訴訟法上の意思能力はこれを欠くものと認めるのを相当とする。

そうすると、訴訟無能力者である被告人についてはただちに公判手続を停止しなければならない筋合のものであるが、被告人の右訴訟無能力の状態は、検察官の公訴提起当時から一貫して変化のなかつたものと認められるから、遡つて被告人に対してなされた起訴状謄本の送達の効力についても検討する必要があるものといわなければならない。けだし起訴状謄本を送達することは裁判所が単独でなす訴訟行為であるけれども、起訴状謄本の送達は被告人が起訴があつたこと及び公訴事実と適条の内容を了知せしめ防禦の準備をなさしめるという訴訟発展の基礎行為であつて被告人の防禦権行使を確実容易ならしめるための最初の最も重要な行為であることと、現行刑事訴訟法においては民事訴訟法の送達の規定を準用し訴訟無能力者に対する送達はその法定代理人に対しなすべきものとされており、監獄の長が、この場合の法定代理人とみなすことができないから、特殊な場合を除いて一応無効と解すべきことなどを考慮すると、受送達者である被告人が訴訟能力を欠くため防禦権の行使が期待できない場合は送達行為そのものも無効であると解することが起訴状謄本を被告人に送達すべきものと規定した制度の趣旨に合致する正当な解釈と認められるからである。

これを本件について見れば、本件起訴状の謄本は公訴提起の翌日である昭和三八年一月二九日裁判所廷吏によつて小幡町拘置支所長宛に送達され、送達行為は一応形式的には適式に完了しているのではあるが、その後右謄本が現実に被告人に手交された経緯を考察すると、看守尾島清一が拘置支所事務室において、手真似で被告人に起訴されたことを教え、弁護人に渡す重要な書類であるから大切にしまつておくように指示して手交したというのであるが、尾島が被告人に示した身振り動作は、手拳を鼻の上において弁護人という意味を表わし、重要書類ということは懐中へ入れる真似をして見せたなどという尾島自身の考察による単純な動作に過ぎないので、被告人の前記能力から推察して、被告人が尾島の右身振り動作を同人の意図どおりに理解し、同人から受け取つたものが起訴状であり、防禦行為を準備すべき性質の書面であることを理解し得たとは到底考えられず、このことはその後被告人が右謄本を弁護人にも渡さずに鑑定留置当時まで所持していたらしいことによつても推認できるのであるから、前記起訴状謄本送達制度を定めた趣旨を考慮すると、本件においては被告人が訴訟無能力者であるため、現実に起訴状謄本を受領したとしても、その一事をもつて被告人に対して公訴提起のあつたことを了知させ防禦の機会を与えたものとは認めがたく、送達行為が形式的に完了しているとはいえ、なお起訴状謄本の送達がなかつたと同様に判断すべきであるといわなければならない。けだし、このように解することが、一般的に訴訟無能力者である被告人が在宅のまま起訴された場合との均衡を保つために妥当であると解されるからである。

そうすると、被告人に対する起訴状謄本の送達については、その送達がなかつたものと同様に解すべき瑕疵が存することとなるが、被告人が訴訟無能力者であることを考慮すると、公訴提起後二ヶ月以内に行なわれた第一回および第二回公判廷においても、又その後においても、被告人から格別の主張がなかつたからといつて右瑕疵に対する責問権の放棄があつたものと認めることはできず、このことは弁護人が起訴状謄本の送達の効力について格別の異議を申立てていないことによつても左右されるものではないから、結局本件公訴はその起訴状謄本送達に際しての瑕疵のため、公訴提起後二ヶ月以内に起訴状謄本の送達がなかつた場合と同様に遡つてその効力を失なつたものと解するのが相当であると判断し、刑事訴訟法第三三九条第一項第一号を適用して主文のとおり決定する。

(裁判官 佐藤恒雄 福森浩 守屋克彦)

起訴状

左記被告事件につき公訴を提起し公判を請求する

昭和三十八年一月二十八日

宇都宮地方検察庁

検察官検事 仙波敏威

宇都宮地方裁判所 殿

被告人

本籍 栃木県塩谷郡塩谷村大字船生五千四百二十七番地

住居 同所五千四百三十六番地

職業 農業

八木沢光三

大正十二年四月十日生

公訴事実

被告人は、聾唖者であるが、昭和三十八年一月四日午後六時四十分頃、栃木県塩谷郡塩谷村大字船生五千四百三十六番地八木沢元良方東南側軒下附近において、実妹の夫である同人(当三十六年)と些細なことから争をなし、同人から右眼附近を殴打される等の暴行を受けたことに憤慨して、同人に対し右手拳でその左側頭部を殴打するの暴行を加えて同人をその場に転倒させ、同人の頭を同所の石に打ちあてさせ、よつて左側頭部打撲傷等の傷害を与え、翌五日午後一時五十五分頃、同村大字芦場新田二百六十二番地の一医師小林政千方において、右傷害に基く脳挫創に因り、同人を死亡するに至らしめたものである。

罪名及び罰条

傷害致死 刑法第二百五条第一項

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